2009年02月25日

タラカン戦(1945)〜第二次世界大戦時の戦闘〜


開始日:1945年5月1日
場所:タラカン島、オランダ領東インド諸島
結果:連合国側の勝利

交戦国:オーストラリア、アメリカ合衆国、オランダ/日本
司令官:デビッド・ホワイトヘッド准将/常井忠雄少佐
兵力(従軍兵士数):15532名/2200名
犠牲者:死者251名以上、負傷者669名以上/死者1540名、捕虜252名(1945年8月15日時点)

(写真キャプション:画像はこちらを参照)
戦闘時、タンクヒル(タラカン島)にあった石油貯蔵タンクを破壊し進軍するオーストラリア軍の歩兵連隊。

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 タラカン戦は1945年5月に行われ、オーストラリア軍主導のボルネオ奪還作戦の最初の攻撃であった。この戦闘は連合国側の大勝利に終わり、日本軍にダメージを与え、その結果タラカン島飛行場の奪還に成功した。

[背景]

◆日本軍占領下のタラカン島

 日本軍は1942年1月11日にこの島へ進攻し、電撃的な激しい戦闘によって駐屯していたオランダ軍を破った。島内の油田は降伏前にオランダ軍自らの手で破壊されたが、日本軍は1944年初めには1ヵ月あたり35万バレルの石油を産出するまでに復旧。しかし、島の住民5000人は日本軍の残忍な占領下におかれていた。中でも、ジャワ島で徴集された約600人の労働者と300人の従軍慰安婦は最も苦しんだ人々で、その女性たちは事務や縫製の短期的な仕事があるとそそのかされ、この島へ連れてこられた。

 しかし、日本側がタラカン島で得ていた物的・人的な価値は、その後連合国軍の反撃によって失われていった。日本側のタンカーは1944年7月を最後に同島への寄港を中止し、さらに同年後半に連合国軍は激しい空襲を同島へ行い、島の産油・貯蔵施設を破壊。その結果、島の重要性が薄れてきたため日本軍は1945年前半、島に駐屯していた2つの歩兵連隊のうち、1つをバリクパパンへ撤収させた。

◆連合国軍の狙い

 連合国軍のタラカン島攻略(作戦コード名「オーボエ・ワン」)の主な目的は、以後展開するブルネイ・ラブアン・バリクパパン各地での地上戦において上空からの援護を行うために、同島飛行場を確保することだった。さらに第二の目的は、島の油田を確保することで連合国軍の石油調達源とし、戦略を推進・強化することだった。

[戦闘の概要]

(イラストキャプション:画像はこちらを参照)
タラカン島での戦闘における進軍を示した地図。

◆進攻の準備

 進攻に先立ち4月12〜29日、島内の日本軍の要塞は連合国空軍・海軍による激しい攻撃を受けた。その後、進攻艦隊の第一陣が4月27日に同島沖に現れ、掃海活動を開始。4月30日には、2/7フィールドRegimentの2/4 Commando隊と57のバッテリーは、さまざまな軍事的障害を進攻開始地点(上陸目標地点)の浜辺から一掃する任務を課され、2/13フィールドを支えるため同島近隣のSadau島へ上陸した。

◆上陸

(写真キャプション:画像はこちらを参照)
HMAS Manooraを去っている2/48歩兵連隊Battalionの第2の波。

 主な進攻部隊--第26師団が主力--は5月1日未明、同島近海に船で到着した。鋭い士気と海軍による援護爆撃に支えられ、2/23 Battalionと2/48 Battalionは午前8時頃、陸海空軍と協調して上陸。犠牲者も比較的少なく済み、同島沿岸部における日本軍の防衛力を一掃した。残り師団の大部分も(戦車部隊を含む)、同じ日に後刻上陸した。

 上陸拠点を確保した後、第26師団は飛行場滑走路のある島北部と、タラカンタウンのある島の東部へ進んだ。日本軍の激しい抵抗に打ち勝った後、滑走路は5月5日に占領、そして町も主に5月6日までに確保。また、第26師団が飛行場の占領を成し遂げる間、日本軍は島のゴツゴツした内陸部を占拠した。

 島を確保し滑走路を敵の攻撃から守るために、第26師団は大量の樹木で覆われた丘から日本軍の部隊を一掃することを命じられた。この必然ながらも、引き換えに代償の高くつく歩兵連隊の攻撃の間、オーストラリア軍は大砲による砲撃と上空からの援護を強力に行った。日本軍の守備隊は徐々に破壊を受け6月14日、この日の攻撃で生き残った兵士たちは島の北方へ撤退し、あるいはボルネオ島本土へ退却しようともした。日本軍の組織的な最後の反撃は6月19日だったが、その後終戦を迎えるまで残存兵の掃討作戦が続けられた。

◆建設面の問題

(写真キャプション:画像はこちらを参照)
奪還2週間後のタラカン島飛行場。周辺の広範囲に激しい戦闘で生じた陥没が点在している。

 連合国軍第26師団歩兵連隊がその丘で日本軍の掃討作戦を遂行している間、飛行場建設第61連隊の豪空軍エンジニアたちは、飛行場滑走路の整備を懸命に進めていた。既に進攻前の爆撃によってかなりのダメージを受け、しかも湿地帯にあるため、その滑走路は予想以上に修復困難と判明。当初、その一部を再び使用できるようになるまで、修復には8週間かかると推測された。また、全面的に使用するのにも、板金をつないで地面をマットで覆うように置く他なかった。当時のプレートの残りは、今もタラカン空港敷地内の駐車場に残存している。

 6月28日にはこの滑走路が一部仮復旧したが、それはブルネイまたはラブアン(6月10日)への上陸作戦や、バリクパパンへの上陸作戦を全面的に支援するためには遅いものだった。しかし、No.78 Wing RAAFはこの日からタラカン島を根拠地として、終戦までバリクパパン進攻を支援するべく出動を開始。残忍な日本軍の占領から島民たちを解放していった。

[その後]

 第26師団は大部分が1945年10月に解散されたが、その一部は1945年12月27日まで駐留部隊として島に残った。同師団の本部は1945年前半にはオーストラリアへ帰還し、1946年1月にブリズベーンで正式に解散した。

 ボルネオ奪還作戦(1945)と同様、タラカン島でのオーストラリア軍の戦闘についても今日、論争が続いている。その論争とは、この戦闘が無意味な「つけたし」に過ぎなかったのかどうか、東インド諸島をオランダや日本の占領から独立解放させるための正当な行為だったのかどうか、終戦直後の1946年から議論が続けられている。(以下略)


※上記はウィキペディア英語版原文(http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Tarakan_%281945%29)より一部抜粋の上、管理人が翻訳。
posted by Yasuhiko Kambe at 22:00| Comment(0) | ウィキペディア英語版訳文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ボルネオ奪還作戦(1945)


 第二次世界大戦時、1945年に行われたボルネオ奪還作戦は、南西太平洋エリアにおける連合国軍の大規模な作戦であった。5月1日〜7月21日の一連の陸海空軍共同の攻撃において、オーストラリア軍I部隊はレスリー・Morshead将軍の指揮下、島を占領していた日本軍を攻撃。この部隊は、島の南部と東部では鎌田道章中将の率いる日本陸海軍、北西部では馬場正郎中将指揮下の第37陸戦部隊の抵抗を受けた。

 当時、この作戦についてオーストラリア国内では、無意味かつ兵士の命を「浪費」するものだと非難を受けたが、いくつかの戦果を上げた。例えば、オランダ領東インド諸島主要部を占めていた重要な日本軍の兵力を分断させて損なわせ、大きな油田をも奪還し、エスカレートする劣悪な扱いを受けていた連合国軍捕虜を解放した(中略)。

 5月1日、ボルネオ島北東部沿岸のタラカン島という小さな島から、この作戦は開始された。さらに、これに続いて6月1日、ボルネオ島北西部にあたるラブアン島とブルネイ沿岸部へも同時攻撃が行われた。その1週間後、オーストラリア人は北ボルネオで日本軍の拠点を攻撃。7月1日にはバリクパパンで第二次世界大戦最後の陸海空軍共同の大攻撃が行われ、その後連合国の攻撃目標は島の東岸に移った。(以下略)


※上記はウィキペディア英語版出典記事(http://en.wikipedia.org/wiki/Borneo_campaign_%281945%29)より一部抜粋の上、管理人が翻訳。
posted by Yasuhiko Kambe at 21:51| Comment(0) | ウィキペディア英語版訳文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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